神戸地方裁判所伊丹支部 昭和61年(ワ)230号 判決 1988年12月26日
原告 下村貞夫
右訴訟代理人弁護士 秋山英夫
被告 坂上正治
右訴訟代理人弁護士 筒井貞雄
主文
被告は原告に対し原告から金二八五七万一四二八円の支払いを受けるのと引換えに別紙目録記載の土地につき昭和六一年七月一八日売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。
事実
第一当事者の求める裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し、原告から金一二五万円の支払いを受けるのと引換えに、別紙目録記載の土地につき昭和六一年七月一八日売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は昭和四一年九月二四日、被告から別紙目録記載の土地(以下「本件土地」という。)を左の条件のもとに建物所有の目的で賃借し(以下「本件賃貸借契約」という。)、その地上に建物を築造して現在に及んでいる。
賃貸期間 二〇年間
敷金 五〇万円
賃料 月額金一五〇〇円
(現在では年額金八万円)
2 右契約当時、原告と被告は覚書(以下「本件覚書」という。)を取り交わし、原告が契約期間中に被告に対して本件土地を買い取りたい旨を申し入れたときは、被告は原告に対して代金一七五万円(ただし、敷金五〇万円はこれに内入れ充当)で本件土地を売り渡す旨約定した。
3 原告は、右契約期間中である昭和六一年七月一八日被告に到達した書面で本件土地を買い取りたい旨を申し入れたので同日本件土地の売買契約が成立した。
よって、原告は被告に対し、売買契約に基づき、残代金である金一二五万円の支払いと引換えに本件土地の所有権移転登記手続を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実は否認する。
3 同3の事実のうち、原告が昭和六一年七月一八日被告に到達した書面で本件土地を買い取りたい旨を申し入れたことは認め、その余は否認する。
三 抗弁
1 原告は、本件賃貸借契約に際し、二、三年のうちには本件土地を買い取る旨被告を申し欺き、その旨誤信した被告をして本件覚書に署名押印させたものであるから、被告は昭和六一年一二月一日の本件口頭弁論期日において、本件覚書の内容を詐欺による意思表示として取り消す。
2 仮に1が認められないとしても、原告と被告は、二、三年のうちには原告が本件土地を買い取ることを意思表示の要素として本件覚書を締結したものであるから、右期間を超える部分については、本件覚書の内容は錯誤により無効である。
3 仮に以上が認められないとしても、本件覚書締結当時更地時価で約一七五万円であった本件土地は、二〇年後の昭和六一年現在更地時価で約四〇〇〇万円に高騰しているから、いわゆる事情変更の原則により、本件覚書の内容は既に失効している。
4 仮に以上が認められないとしても、原告が本件土地を買い取る権利は債権の一種であるところ、債権の消滅時効期間は一〇年であるから、原告の右権利は本件覚書締結の日である昭和四一年九月二四日から一〇年を経過した昭和五一年九月二三日の満了により時効消滅しているので、被告は右時効を援用する。
5 仮に以上が認められないとしても、原告は昭和四六年三月一日に手元金五〇〇万円を得ていたのであるから、同日本件土地を買い取る権利が発生したところ、原告はその後一〇年以上右権利を行使しなかったので、原告の右権利は同日から一〇年を経過した昭和五六年二月末日の満了により時効消滅しているから、被告は右時効を援用する。
6 仮に以上が認められないとしても、原告は右五〇〇万円をまもなく他の用途に費消したので、そのとき右権利を放棄したものというべきである。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁1の事実のうち、被告が詐欺を理由とする取消しの意思表示をしたことは認め、その余は否認する。
2 同2の事実は否認し、その法律上の主張は争う。
3 同3の法律上の主張は争う。
4 同4の事実のうち、被告が時効を援用したことは認め、その余は否認する。
5 同5の事実のうち、原告が昭和四六年三月ころ手元金五〇〇万円を得ていたこと及び被告が時効を援用したことは認め、その余は否認する。
6 同6の事実のうち、原告が右五〇〇万円を他の用途に使ったことは認め、その余は否認する。
五 再抗弁(抗弁3に対して)
1 原告は、本件覚書締結後昭和四六年と昭和四九年の二回にわたり、被告に対して残代金の支払いを申し出たが、被告は言を左右にして取り合わなかった。
2 このように被告自身が本件覚書上の義務の履行を回避しつつ年月を徒過させていながら、現在に及んで事情の変更を主張することは、信義則に反し許されない。
六 再抗弁に対する認否
再抗弁1の事実は否認し、同2の主張は争う。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1の事実及び同3の事実のうち原告が昭和六一年七月一八日被告に到達した書面で本件土地を買い取りたい旨を申し入れたことは当事者間に争いがない。
二 《証拠省略》を総合すると、原告と被告は、本件賃貸借契約の締結に際して本件覚書を取り交わし、
(一) 原告が契約期間中に本件土地の買取りを希望するときは、総額金一七五万円で売却することを被告は承諾する。
(二) 本件賃貸借契約に伴う敷金五〇万円は、売却代金の内払いとみなし、右総額から控除する。
(三) 被告は、代金完済と同時に、瑕疵のない所有権を原告に移転する
旨約定したことが認められ、右認定に反する証拠はない。
三 以上によれば、原告と被告は、本件賃貸借契約と同時に本件土地を目的物とする売買の一方の予約を成立させ、その予約完結権の存続及び行使期間を本件賃貸借契約の期間と同一の昭和四一年九月二四日から二〇年間と約定したものというべきであるところ、原告は右期間中の昭和六一年七月一八日被告に到達した書面で本件土地を買い取りたい旨を申し入れているのであるから、右予約完結権の存続及び行使期間中にこれを行使したものというべきである。
四 そこで抗弁について検討する。
1 被告は、本件覚書は原告が二、三年のうちに本件土地を買い取ることを前提として締結されたものである旨主張し、本人尋問においても同旨を供述するところ、原告は本人尋問(第二回)において強くこれを否定し、他に右事実を認めるに足りる証拠はないから、その余の点につき判断するまでもなく、抗弁1及び2は理由がない。
2 被告は、原告が本件土地を買い取る権利を取得したとしても、右は本件覚書締結の日から一〇年を経過した日の満了により時効消滅している旨主張するが、三に前述したとおり、原告と被告は本件土地の売買の予約完結権の存続期間を昭和四一年九月二四日から二〇年間と約定したものであるから、右予約完結権は右期間を経過すれば直ちに消滅する反面、右期間が満了するまでは消滅時効に罹るものではないと解すべきである。被告の主張は、当事者が売買予約の完結権についてその存続期間を約定しなかった場合に妥当する議論であって、これとは事案を異にする本件には適切でないから、その余の点につき判断するまでもなく、抗弁4は理由がない。
3 被告は、原告が昭和四六年三月一日に手元金五〇〇万円を得ていたのであるから、同日本件土地を買い取る権利が発生したところ、原告はその後一〇年以上右権利を行使せず、かつ右五〇〇万円をまもなく他の用途に費消したので、原告の右権利は時効消滅し又は放棄された旨主張するが、三に前述したとおり、原告と被告は本件土地の売買の予約完結権を行使しうる期間を昭和四一年九月二四日から二〇年間と約定したものであって、右期間内の特定の時期にこれを行使すべき旨を約定したわけではなく、また信義則に照らしても、原告の手元に余裕が生じたときは、右期間の約定にもかかわらず直ちに原告が予約完結権を行使すべきものとまでいうことはできないから、その余の点につき判断するまでもなく、抗弁5及び6は理由がない。
4 最後に抗弁3につき検討すると、いわゆる事情変更の原則は、主として債権関係を発生させる法律行為がなされた際に、その法律行為の環境であった事情が、法律行為の後その効果完了以前に、当事者の責に帰すべからざる事由によって予見しえない程度に変更し、その結果当初の意義における法律効果を発生又は存続させることが、信義衡平の原則上不当と認められる場合に、その法律効果を信義衡平に基づいて変更させることをいうところ、《証拠省略》に公知の事実を総合すれば、本件土地の時価は本件覚書締結当時更地価格で約一七五万円であったが、その後いわゆる列島改造ブームや石油ショック及びこれに引き続く狂乱物価などの経済変動を経るうちに著しく高騰し、原告が本件土地を買い取りたい旨申し入れた書面が被告に到達した昭和六一年七月一八日ころには、更地価格で約四〇〇〇万円程度にまで騰貴していたこと、本件覚書締結当時もいわゆる一般消費者物価は毎年数パーセントの割合で上昇していたが、本件土地の時価が約二〇年間で二十数倍に高騰することまでは、原告及び被告を含めて当時の一般人が予測しえなかったこと、被告が原告から本件賃貸借契約に伴う敷金として受け取った金五〇万円は、当時としては相当高額のものであったが、当時の本件土地の更地価格に対する割合は二八・五七パーセントにとどまっており、向う二〇年間、いかなる事情の変更にもかかわらず本件土地を残代金一二五万円で原告に売り渡すよう被告を拘束する対価としては、決して十分な額とはいえないことの各事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はないから、抗弁3は、本件にいわゆる事情変更の原則を適用すべきことを主張する点において理由がある。
しかし、右原則は元来正当に発生した法律関係につき後発的事情のために生じた不衡平な結果を排除することを目的とする規範であるから、第一次的にはなるべく当初の法律関係を存続させ、ただその効果につき内容の変更を主張する権利を認める程度にとどめ、これに対して相手方が拒絶する等この方法ではなお不衡平な結果を除却することができない場合に初めて第二次的に当初の法律関係全体を解除する権利等を認めてこれを解消させうるものと解すべきであるところ、本件売買予約の完結権が本件覚書締結時から二〇年間存続すること自体は、原被告ともこれを認識又は予見していたのに対し、これに記載された本件土地の売買代金額が右期間の経過によって著しく低廉になってしまうことは、原被告ともこれを予見しえなかったのであるから、本件においては、本件売買予約自体はこれを存続させ、ただその内容となっている売買代金額を適正な額にまで変更する権利を被告に認めれば足りると解されるので、抗弁3は、本件覚書の内容の全面的失効を主張する点においては理由がない。
そこで更に右適正代金額について検討すると、当初の売買予約上の代金額一七五万円は、本件覚書締結当時の本件土地の更地時価相当額であったのであるから、変更後の売買予約上の代金額も、予約完結権が行使された時点における本件土地の更地時価相当額である金四〇〇〇万円とするのが一応適切であるところ、本件売買予約においては、本件賃貸借契約に伴う敷金として交付された金五〇万円が売却代金の内払いとみなされ、代金総額から控除されることになっていたのであるから、右金五〇万円についても、本件土地の更地時価の変動に比例して評価替えをするのが衡平の原則に適するので、結局変更後の売買代金の残額は、
四〇〇〇万円×一二五万÷一七五万=二八五七万一四二八円
となる。
そして、本件売買予約においては、代金完済と瑕疵のない所有権の移転とが同時履行の関係に立つものと約定されているところ、既に本件土地が原告に引き渡され、前記敷金五〇万円が被告に交付されている現在においては、被告が原告に対し本件土地につき昭和六一年七月一八日売買を原因とする所有権移転登記手続をすることと原告が被告に対し売買残代金として金二八五七万一四二八円を支払うことのみが同時履行の関係に立っているものというべきであるから、結局抗弁3は、主文第一項の判決を求める限度において理由があることとなる。
なお、原告は抗弁3に対する再抗弁として被告の信義則違反を主張し、本人尋問(第一回)において再抗弁1の事実と同旨を供述するところ、被告は本人尋問において強くこれを否定し、他に右事実を認めるに足りる証拠はないから、その余の点につき判断するまでもなく、再抗弁は理由がない。
五 以上のとおり、原告の本訴請求は主文第一項の判決を求める限度において理由があるのでこれを認容し、その余は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 渡邊壯)
<以下省略>